『信音』掲載エッセイ

 クリスマスの出来事は天使を通して伝えられました。エルサレムの神殿で祭司の務めをしていたザカリアに、ナザレの町で暮らしていたマリアに、ヨセフに、ベツレヘムの郊外にいた羊飼いたちに。どこかに潜んでいるかもしれない獣と盗人から羊を守るため、広い大地の只中で、夜の闇と冷え込む空気に身をさらすように共に野宿をしていた羊飼いたちは、突然主の栄光にさらされ、恐れ惑いました。羊飼いたちとは異なり、それぞれ神殿の聖所や家の部屋で一人きりでいたザカリア、マリア、ヨセフは、天から自分にみ言葉がもたらされるという出来事に一人で直面することになりました。恐れがあり、受け入れ難い思いがありました。しかし彼らはたった一人の者のところにも降り、語り掛けてくださる神さまのみ心と聖霊のお働きに包まれた中で、恐れ抗うことができました。いと高き方の力に覆われながら、直ぐに応える者、暫くの時を要する者、それぞれに必要な時を経て、天からの言葉とクリスマスの出来事を受け入れてゆくのでした。
今年の春、去年は桜をゆっくり見ることも無かったと思いながら、桜を見上げました。僅かな人数で守った去年のイースター礼拝を思い出しながら、イースターの礼拝を捧げました。先日のペンテコステ礼拝も、一年前を思いながら、この間ずっとお会いすることが叶わないあの方、この方を思いながら捧げました。これから、熱中症に気をつけながらマスクをする季節が再びやって来ます。節目の度に、新型コロナウイルス影響下でのこれまでの日々を思います。二年目になれば良い意味で慣れたところもあります。けれど困難の中で頑張り続けてきた疲れや、先が見えない不安、大切な誰かを失った痛みや悔いを抱えたままの心には、二度目の季節であることが重く感じられる時があります。自分の弱さ、他者の弱さ、自分の限界、他者の限界が、私たちを揺さぶります。
人とのつながりは目には見えないけれど、私たちの時間を彩る宝のようなものです。誰かと思いを共有できた瞬間、心躍ります。穏やかなひと時を共に過ごせる温かな喜びがあります。相手に新たな一面を発見する嬉しい驚きがあります。人とのつながりの中で思ってもみなかった隔たりを感じることもまたあります。感じ方、捉え方がこんなにも違うのかと気づくこと、相手が自分ほど心を開いていないと感じることがあるかもしれません。寂しさを覚えることも、打ちひしがれることも、あるでしょう。つながりの中で傷つくことも、傷つけてしまうこともあるでしょう。これでつながっていると本当に言えるのだろうか、この関わりの中で何かを伝えること、何かをすることが未来へとつながっていくのだろうかと、どこかで迷いや不安を抱えていたり、互いの気持ちや熱量、思いの方向に時にずれを感じながら、私たちは他者との関係を築こうとしています。
祭司ザカリアは、やがてお生まれになる救い主のことを「あけぼのの光」と言い表しました。自分が夜のような状態の中にいることを知っていたからでしょう。時が来れば実現する神さまの言葉を信じられなかったザカリアは、神さまによって沈黙を強いられていました。沈黙の時は内なる耳を研ぎ澄まします。沈黙を通してザカリアは、自分の生きてきた世界に広がる闇の濃さを知り、自分の周りにも、自分の内側にさえも、闇が影を落としていることに気づいたのかもしれません。
神さまは愛であること、愛そのものであることが、私たちの喜びです。「神は愛なり」、この言葉を思い起せば、内に温かな火が灯るようです。けれど神さまが愛であること、神さまが私たちに愛を注いでおられることを受け留める思いが揺さぶられるような時があります。神さまの愛の中で生きる者の人生は、このようなものだろうと思い描いていた情景と、自分の置かれている現実がかけ離れることがあります。神の子とされていることを喜んでいるはずの人々が争い、互いの名誉や尊厳を傷つけ合っている現実があります。なぜこの人が、この人々が、このような辛い思いをし続けなければならないのかと、胸が潰れるような思いを味わうことがあります。くっきりと見えていたはずの神さまの愛が、ぼやけてよく見えなくなってしまう時があります。
いつのことであったか、帰路の電車の中で、乗客が肩から下げていたトートバックに書かれている言葉に目が留まりました。そこには“Behind every beautiful thing, there has been some kind of pain”とありました。「あらゆる美しい事柄の背後には、なんらかの痛みがあるものだ」。いったい誰の言葉なのだろう、と気になって調べてみたところ、それは、ボブ・ディランの“Not Dark Yet(まだ暗闇ではないけれど)”という楽曲の歌詞の一部であることを知りました。
「イースターって何?」と誰かから尋ねられたら何と答えるでしょう。「イースターは、春の到来を楽しむためのイベントではない」とは言えても、「キリストの復活をお祝いする日」であることはなかなか言いづらいかもしれません。相手との関係が信仰の話をすることができるものとなっているかどうか、迷いを覚えるということがあるかもしれません。「復活をお祝いする日」だと説明したら、「復活を信じるって、どういうこと?」などと更に尋ねられるかもしれない、それに答えられるかどうか、不安を覚えるということもあるかもしれません。
「一羽のすずめ」という讃美歌を聞いたことがあります。スウェーデン出身の歌手、レーナ・マリア・ヨハンソン(結婚して今はクリングヴァル)さんが日本公演で歌っているのを聴いた時です。レーナ・マリアさんは生まれつき両腕がなく、左足が右足の半分の長さしかなかったのですが、水泳でパラリンピック(1988年ソウル)のスウェーデン代表に選ばれ、背泳ぎ、平泳ぎ、自由形でそれぞれ入賞した経験をもっている方です。選手引退後は音楽大学に進み、歌手として世界を飛び回ってコンサートを開き、日本にも何度か来られてCDも販売されています。その中に日本語で歌われた曲が数曲あり、その一曲がこの「一羽の雀さえも」だったのです。 心くじけて、思い悩むこともあった、さみしく、天を仰ぐこともあった。けれども主イエスが私のまことの友であることを知っている。一羽の雀にさえ目を注いでおられる神が、このわたしを支えてくださっている。だから声高らかにうたう。ああ、一羽の小さな雀さえも守ってくださる神が、この私に目を注いでくださっている、と。

 あなたがたは「世の光」「地の塩」である、とイエス・キリストは語っています。それは今居る場所で光として塩として生きることを促す言葉と言えるのです。では「塩」として生きるとは?  数年前のこと、伯方の塩で有名な瀬戸内海に浮かぶ大三島に行く機会があり、食塩がどうやって作られるか、工場見学をしました。