過去の説教 · 2024/03/26
たった数日の間に人々の間で、主イエスを歓迎し、その言葉やお働きに喜んで耳を傾ける思いよりも、自分の期待通りに行動を起こしてくれないことへの失望が、力を持つようになったのでしょうか。神さまの言葉を聞く喜びよりも、神さまの真理の言葉に自分の闇が明らかにされてしまうことへの抵抗の方が大きくなったのでしょうか。主イエスが居なくなることを望む人々の、死によって主イエスを消し去ろうとする潮流が町を席巻してゆきました。その流れに晒されながら、主イエスはある同じ言葉を、違う相手に、三度告げておられたことをマタイによる福音書は記しています。
過去の説教 · 2024/03/19
主イエスが十字架にお架かりになる前の晩、弟子たちと最後に囲まれた食卓は、通常の夕食ではありませんでした。過越しの祭りの期間、親しい人々で囲む過ぎ越しの食事でした。年に一度、多くの人々がエルサレムに集まって来て祝う過ぎ越しの祭りは、かつてファラオの力の下、奴隷とされていたイスラエルの民の叫びを受け止めた神さまが奴隷の地から民を救い出した出来事を思い起こす特別な時でした。初子を撃つ神さまのお力が、小羊の犠牲の血が塗られたイスラエルの家族の家は過ぎ越された、過越しの出来事を思い起こす一連の祭儀を通して、人々は、自分たちがどのような民であるのか、受け止め直したことでしょう。自分たちは神の民であるのだと、神さまが自分たちの神となられ、自分たちをご自分の民としてくださり、神さまとの契約に生きる道を与えてくださった民であることを新たに胸に刻み、今も共におられ、救いへと導いておられる神さまに感謝を捧げたのです。
過去の説教 · 2024/03/14
今朝、与えられました聖書のみ言葉は、「それでもなお、命を お与えになられるのは神さま」であるということが示されております。  わたしたちは、命の糧を 神さまに日々、いただいて生きている。そのような者であります。そして、そうでありながら、その喜び、恵みを あたりまえのように 受け取り、だいじにすることができないでいます。 私たちが、命の糧を神さまに日々、いただいて生きていることをあらためて、感じる時とは、神さまを信じ、頼らせていただかなければ、 自分では、生きていけない、動けないことに ぶつかる。そのような時であるとも言えましょう。
過去の説教 · 2024/03/04
 今日共にお聞きしましたヨハネの黙示録の箇所は、新年の礼拝で読まれることがあります。これからの1年がこのような時であって欲しいという願いを持つ私たちの心に響き、新しい年の歩みを導く言葉がここにあります。  今日の箇所はそしてまた、葬りの中で特に読まれる箇所であります。逝去された方を覚えて捧げる葬儀の礼拝で、またその人の体とお別れする火葬場で、しばしば読まれます。棺を囲み、その人のことを、その人との間に与えられた交わりのことを思う時、その生涯の歩みを導いてくださった主が、その人も含めて人々に与えてくださっている、死を超える約束を示してくれる言葉がここにあります。
過去の説教 · 2024/02/27
マーティン・ルーサー・キングの自伝に「自由への大いなる歩み」という書物がある。黒人を差別するバスに乗ることを止めよう。キングの呼びかけによって始まったボイコット運動は次第に広まり、それによって次第にアメリカの社会が変化していくことになるのだが、その運動が実際に動き始めるまでには、幾重にも乗り越えなければならない壁が立ちはだかった。その壁の一つは、思わぬところから現れた。この運動が白人から反対されるのは火を見るよりも明らかだったが、同じ神に仕える黒人の牧師仲間の中にこの運動に賛同しない者達、白人にこびを売る者や、白人のご機嫌を損ねないように大人しくしていた方が賢明だと考える現実主義者が多くおり、それがキングの悩み苦しみであったという。  運動に賛同している多くの民衆の中にある老婆がいた。彼女はバスに乗らずに歩道を杖をつきながら歩いていた。たまたま通りがかったタクシーの黒人の運転手が彼女に声をかけた。「おばあちゃん、乗んなよ、無理して歩くことはないよ」と。その時、老婆はこのように答えた。「私は私自身の為に歩いてるんじゃないよ。私の子供や、私の孫の為に歩いているのさ」と。
過去の説教 · 2024/02/19
愛と聞いて私たちは先ず十字架を思い浮かべるでしょうか。どちらかと言うと、温かく私たちの全てを包み込むような優しさ、輝きといったイメージを思うのではないでしょうか。私たちが神さまに期待するのも、そのような愛のイメージと重なるものでありましょう。人々から理解されず、執拗な攻撃や揶揄する言葉を浴びせられ、死んで自分たちの社会から消えて欲しいと多くの人に望まれ、十字架上でまでも罵声を浴びせられた主イエスの出来事に、真っ先に愛を思い浮かべないかもしれません。その十字架によって、神さまの愛を私たちは知ることができるのだと、この手紙は言います。
過去の説教 · 2024/02/12
このペトロの手紙は、キリスト者として生きていくのが厳しい環境で暮らしている人々に向けて書かれています。 今日の箇所を聞き、受け取り手たちがそのような厳しい状況にあったということを、意外と感じるかもしれません。手紙は1、2節で、手紙の前置きとして挨拶と祈りを述べますが、それを述べ終えた途端、「私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように」と神さまを賛美し始めるからです。挨拶と祈りの後に先ずこれを伝えたい、そう願ってきた思いが溢れ出した、そのような勢いのある表現です。
過去の説教 · 2024/02/06
本日はヤコブの手紙の言葉に耳を傾けました。この手紙は離散しているキリスト者たちに宛てて書かれています。教会が力を持っている地域や国ではなく、キリスト者が全くのマイノリティーである社会、キリスト教とは異なるものによって社会や文化が成り立ってきたところで、キリスト者がどのように信仰を守って生活するのか、手紙を通して語り掛けています。その意味でこの手紙は、私たちに宛てて書かれているとも言えます。
過去の説教 · 2024/01/29
「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(ヨハネ9:2)。 これはたまたま通りすがりにイエスと弟子たちが生まれつき目の見えない人を見かけたとき、弟子たちがイエスに尋ねた問いである。失敗やそれに付随して重大な過失が起こってしまうと、政治の世界でも経済界でも、この世ではよく「再発防止」ということが叫ばれる。そのためには原因を究明し、なぜそうなったのかを検証して、そのような事故が起こらないように未然に防ぐことが求められる。というよりも、本当に再発防止のために全力を尽くすかどうかはさておき、取り敢えず「我々は然るべき対策を講じた」という、世間に対して納得してもらえるような説明というか報告が求められ、本気で再発を防ぐことよりもまず、世間からのそう言った要求に応えることに四苦八苦しているように思う。
過去の説教 · 2024/01/22
伝道者という人々に神の言葉を伝える働きをしていますとよく周りから「あなたはどのようにして神様を信じて、神様に従って生きていこうと決心したのですか?」という質問を受けることがあります。「どのようにして神様を信じるに至ったのか」「どのようにして神様に従って生きていこうと決めたのか」このような信仰者として皆が抱える問いに思いを巡らすとき、自らの人生の歩みを振り返ると同時に、いま、ここにいる皆さん一人一人にもきっとそれぞれに固有の神様との出会い、神様を知った経験があったのではないかと思います。

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