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三日目によみがえり

ルカ24112「三日目によみがえり」(使徒信条)

20201018日(左近深恵子)

 

 9月から礼拝で使徒信条の言葉を一つ一つ取り上げ、その言葉の元にある聖書箇所に耳を傾けてきました。本日は「三日目に死人のうちよりよみがえり」という言葉の土台となっている聖書箇所の一つを、共にお聞きしました。

 

友人を礼拝に誘いたいけれど、復活が妨げになっている、という声を聞くことがあります。キリストが復活したということがどうも受け入れられないと友人から言われる。自分も復活について質問されても、説明ができなくて、と残念そうに言われたこともあります。復活の出来事に、誰でも困惑します。いつの時代の人にとっても信じがたいことであります。パウロもコリントの教会に宛てた手紙で、「あなたがたの中のあるものが、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」と嘆きます。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄で」「むなし」いではないか、キリストが復活しなかったのなら、「私たちは」「復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになる」ではないか、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最もみじめな者」ということになるではないかと、キリストの復活を退けることはどういうことであるのか、畳みかけるように説きます。そして、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」のだと(Ⅰコリ151220)宣言します。福音を伝えることは無駄なこと、虚しいことではなく、私たちは情熱や喜び、充実した思いで日々満たされていると、宣言します。復活を否定する人々に対してパウロが語るのは、自分たちがキリストの復活によってどのような恵みを賜っているのかについてです。宣教が妨害されても、思うような活動ができなくても、肉体の疲れや病に苦しめられても、潰されてしまうことなく、町から町へとパウロが福音を伝え続けるのは、キリストが復活された事実にこんなにも力と望みを与えられているからだと、伝えようとしています。

 

復活を教会はどうしても伝えたいのです。復活が、先が見えない日々の中にある私たちの力と希望の源であるからです。感染症の影響が、それぞれが抱える困難を更に厳しいものにしています。死の力が私たちの日常にいかに大きな力を及ぼしているのか、思わされてきた日々でもあります。肉体と生命を守ることに奮闘し、死別の悲しみに涙を流すこともあり、愛しい人々に今はもう会えないことに胸を締めつけられることもある私たちの、慰めの源は、キリストの復活にあるのです。

 

パウロがそうであったように、聖書は復活が事実であることを証明するよりも、復活の出来事を語り、復活によってもたらされる恵みを語り続けます。主イエスが十字架で息を引き取られてから三日目の日曜日の朝、急ぎやってきた婦人たちは、お墓が空になっているのを見ました。ガリラヤから主イエスに従ってきたこの婦人の弟子たちは、主イエスがかつてご自分の受難と死と三日目の復活について語られたことを聞いていた人々です。その婦人たちが、お墓が空であり、主イエスの体がそこに無いという事実を見ました。けれど見たからと言って、婦人たちは信じたわけではなかったのです。

 

同じようなことが、他の弟子たちにも見られます。お墓から戻ったこの婦人たちから主が復活された出来事を聞いた弟子たちですが、聞いたからと言って彼らは信じたわけではありません。「この話がたわごとのように」思い、「婦人たちを信じなかった」とあります。今日の個所の直ぐ後で語られる二人の弟子たちは、復活の主ご自身に会っています。主が聖書を説き明かされる言葉を聞きながらエマオに向かって一日共に歩きます。けれど、復活の主に会ったから、その声を聞いたから、その言葉に耳を傾けたからと言って、二人が信じたわけではありませんでした。復活を信じようとしない弟子たちのことを、福音書は隠そうとはしません。復活の事実を知りながら、神さまがキリストの復活によって示してくださった命を信ずることができずにいる弟子たちの、ありのままの姿を伝えます。空のお墓の中で途方に暮れて立ち尽くす婦人たちの姿、復活の出来事を婦人たちから知らされながらたわ言と思う弟子たちの姿、婦人たちから知らされながら、主が復活されたエルサレムを後にして、どんどん離れてゆく二人の姿、これら弟子たちの姿に、これまでどれだけ多くの人が自分や、復活の出来事を退ける誰かの姿を、重ね見てきたことでしょうか。

 

復活の事実を知ることと、復活の出来事を受け入れることは、一つのことではありません。復活を受け入れるのは、私たちの知恵や判断力によるものではなく、神さまがそうさせてくださるのです。「あぁ、本当にキリストは復活されたのだ」と納得させていただくことが、神さまによってもたらされます。キリストの死と復活が、私たちにおいて出来事となる瞬間です。信仰が揺さぶられたり、生命を守る意味、存在し続けることの意味が見えなくなったり、死をすぐ近くに感じる局面においてこそ、神さまは復活の出来事によって支えてくださいます。支えられる度に、より深いところで納得させていただく、そのようなことを重ねつつ、復活の喜びは私たちの内側へと、深みへと、染み渡っていくのです。

 

 復活を人が起こすことはできません。人が主イエスを復活させることはできません。だから私たちは困惑します。だから朝早いお墓の中で、婦人の弟子たちは途方に暮れます。「途方に暮れる」と訳された言葉は、「道、渡し、手段」などを意味する言葉に、否定を表す言葉が付いてできた言葉が元になっています。道が否定される、それまで連続してきたものが、途絶えてしまうということです。この先が続いていくと思っていたその道が途絶え、婦人たちは途方に暮れます。この方について行くことが神さまに至る道だと主イエスに従ってきたのに、主イエスの命が奪われてしまった。せめて体を大切に葬ろうとやってきたけれど、体も何ものかに奪われてしまった。主イエスを死に追いやった人間の罪は死の力に主イエスを引き渡し、死は自分たちから主イエスの命も体も、進む道も奪ってしまった。そうして婦人たちはお墓の中で途方に暮れています。自分と他者の罪に捕えられています。主の体が無いという復活の事実も、かつて主イエスから聞いた言葉も、死の影に覆われるままでいます。復活と言う神さまの出来事の中にありながら、神さまのみ業とみ言葉から断絶してしまったかのように、立ち尽くしています。罪の中に居たいわけではない、死が終着点でしかない人生を生きたいわけではない、けれど罪と死の中に閉ざされてしまう人々の姿です。この婦人たちの方へと、神さまは救いを遣わしてくださいました。

 

 ルカによる福音書は、お墓の中で立ち尽くす婦人たちのそばにみ使いが現れたことを伝えます。神さまのみ業と御心がここまでは届かないと婦人たちが絶望し、力を失い、覆われ、閉ざされるがままにされている、その罪と死の中にまで、神さまが近づいてくださったことを伝えます。

 

 み使いは「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と問います。なぜ、主イエスの道が死によって途絶えたとしてしまい、死者の中に主イエスを捜すのか、死は、主イエスの道の終着点ではない。道は閉ざされていない。なぜ生きておられる方を、死の力に覆わせたままにしようとするのか。主は死の力に覆われたままではない。主は生きておられると告げます。

 

 み使いは婦人たちが主から聞いた言葉、自分では思い出すことができずにいた言葉を、思い出させます。「人の子は必ず、罪びとの手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と。「することになっている」という表現は、既に定められていること、神さまがそう定めておられることを表します。人が思い出すことができなくても、死の力に何もかもを覆うままにさせてしまっても、神さまは定められたことを成し遂げられます。婦人たちは、人々の罪が神さまのみ業から主イエスを引きはがしてしまったから、主イエスは十字架にかけられ、死んでしまわれたと思っていたことでしょう。主の体を奪われた自分たちも、神さまのみ業から引きはがされてしまったのだと思っていたことでしょう。けれど、主イエスが罪人の手に渡されることも、十字架につけられることも、復活されることも、必ずそうすることになっていることであったのだと、つまり神さまのご計画とご支配の下にあったのだと、み使いは思い出させます。人々の罪が極まった主イエスの十字架の出来事においても、主イエスの死の三日間においても、ここにはもう神さまの御業は届いていない、そう思い込んでいたこれらの闇の中にあっても、神さまの道は続いていたのだと告げています。既に聞いていたこれらの言葉を、神さまの導きによって聞き直すことができた婦人たちは、お墓を後にして、帰途に着きます。お墓の中で、死という終着点の前で立ち尽くしていた婦人たちが、神さまの道を再び歩きだす者となっています。再出発した婦人たちが先ずしたことは、復活の出来事を他の弟子たちに伝えること、伝えずにはいられない復活を、伝えることであったのです。

 

先週の聖書探訪において、詩編4243編を共に読みました。これらの詩編には、通奏低音のように「お前の神はどこにいる」という問いが流れています。神さまの所在を問うというよりも、生ける神が共におられることを疑問視させる問いです。詩編の詩人は、困難な状況の中で、他者から浴びせられるこの問いに苦しんでいます。聖書探訪に参加してくださった何人もの方が、これは自分の中にも繰り返し起こる問いであると語りました。この問いに揺さぶられる思いを皆さんと分かち合いました。そして、私たちはそれでも「なお」、神さまを待ち望み、共に礼拝で「御顔こそ、わたしの救い」と、「わたしの神よ」と告白することができる恵みが与えられていることを、分かち合うことができました。

 

死によって道が途絶えてしまったと立ち尽くしていた婦人たちは、捜し出し、語り掛けてくださる神さまの導きと、キリストの言葉によって、キリストは生きておられると、キリストは死者の中にではなく、私たちと共におられると、受け止めることができました。キリストが罪の裁きとしての死を克服され、復活されたことを信じることへと導かれた婦人たちは、今度は、主は生きておられると、他の人々に伝える者となりました。

 

 

私たちのために命を棄て、復活され、生きておられる主を、主が復活された日曜日毎に、主を信じる人々と共に礼拝することが私たちの力と希望の源です。闇としか思えない困窮の中にも、光をもたらしてくださるキリストが、今も、これからも、永久に生ける神であります。どのような力も、罪も死も、復活の主から私たちを引き離すことはできません。神さまのみ言葉から自分を断絶させてしまう私たちの頑なさも、生ける神から私たちを引き離すことはできません。聖霊なる神が私たちの頑なさを砕いてくださるようにと祈り求め、私たちを覆いつくそうとする罪も死も貫く神さまの道を指し示すみ言葉に、日々新たに聞く者でありたいと願います。